ヒトノカズダケ

 ヒトノカズダケ・・・ 言葉があり、想いがあり、LIFESTYLEがあり、幸せがある。 日々よぎる思いを言葉にし、近くにいるようで遠い誰か、まだ知らない誰かとつながりを持てたらいいと思ってつくりました。

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絶好のチャンス


なんだろう?この胸の爽快感は。

快晴の空と河原の冷たく澄んだ風以外にも、この胸を晴らした訳がありそうだ。


今日は、恒例の山谷越年冬祭りの2日目。

親子丼を、300食炊き出した。


山谷は、私にとって初めての‘地域’と呼べる場所なのかもしれない。

あそこに行くと、すれ違う人みんなに声をかけたくなる。

ふだん暮らしているところや、ほかの場所では声をかけるなんておろか、近づくこともできない人たちと平気で笑い合い、触れ合っている。

名前すら覚えていないおっちゃんが、
「おぉ、元気か~?仕事してるのか?派遣じゃないよな?」
とか、
「(坊主のときを知っていて)髪が伸びたなぁ~、やっと女になった」
とか、
「ひさしぶりだなぁ。ちゃんと食べてるか?」
なんて、聞いてきてくれると、涙が出るほど嬉しくなって、自分でもびっくりするほどの笑顔で返す。

去年の夏に山谷の女性宿泊所の夜勤を辞めてからは、山谷には夏祭りと越年の年に2回しか足を運ばなくなった。

半年振りのおっちゃんたちとの励まし合い(いや、私のほうがたくさん励まされていた・・)で、山谷が私にとってほかの場所とは比べることもできない特別な場所だということを気づかされた気がした。


身心に不調を抱えていたり、金銭面、人間関係の問題をそれぞれ抱えながらも、集い、穏やかに笑い合って時間を過ごすことのできる彼らからは、人間の生きる強さを感じた。


このあいだ、國學院の差別とアイデンティティという講義に、以前働いていた精神障害者の作業所のメンバーが出張講演に来てくれた。

メンバーの1人は、出張講演の当日、妄想が出現したため仕事をすることができなかったと話した。

それなのに、なんでここにいられるんだろう と、私は首をかしげた。

彼は、あと1日で、休まずに1年仕事に通うことができたはずだったが、具合が悪くなってしまって、ショックで、本当は今日、来るのを迷ったと話した。

けれど、彼の通う作業所のスタッフは言ったそうだ。
「気分転換に行ってきたら?」

・・気分転換? 大勢の前で自分の辛い経験や今の自分自身を語ることが気分転換?

面食らってしまった。


彼は、授業の後こそっと、「この授業じゃなかったら来なかったですよ」と話した。
ここでだったら、無理をすることなく、今のありのままの自分を見つめ、話ができると思ったのだ。


誰だって、自分の認めたくない一面や、嫌いな部分がある。

なかなか向かい合えない自分が内に潜んでいる。

そのいちばん隠したい自分の内面を人の前で言葉として表現することの凄さに、再会の嬉しさとともに涙が溢れた。



この年末に思うこと。


働く権利を奪われた労働者は、不当な解雇には声を挙げるべきだと思う。

しかし、身心を削って必死にしがみつくほどの労働なのかどうか、問い直してみる機会として受けとめることはできないだろうか。


生きなおす絶好の機会。


1人の選択によってその人生は変わり、1人1人の選択によって社会は変わる。



私は、貧困そのものが、生を貧しくするとは思わない。

それは、山谷にしたってインドにしたって、同じことだ。

1人の生き方で、世界は変わる。

そう信じて、信じた道を生きる人が世界を変える。


生き方なんて、自分次第だ。


それを生涯、言い続けていきたい。




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  1. 2008/12/30(火) 01:09:01|
  2. kurehaの独り言
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コメント

差別とアイデンティティ

長らくヒトノカズダケを見させていただきましたが、コメントを書くのははじめてです。
この間の差別とアイデンティティは私も久しぶりに出席しました。
そしたら偶然にも去年もお会いした巣立ち会の方々がゲストとのこと、私自身の状況の変化もありますが、久々に自分の心をえぐるような授業となりました。

本文中にある方はおそらく昨年は私たちの班に来て、お話をしてくださった方だと思います。その時は、仕事を始めたころだったのでしょう、やっと仕事に就けた喜びを語る姿が印象に残っています。

人前で話すことが気分転換とは確かにびっくりですね。その場のスタッフや当事者の間に確かな信頼があるのでしょう。

「この授業じゃなかったら来なかったですよ。」とは一聴衆ではあったけれどとてもうれしく思います。

あのような公演を会話にたとえるのは少々無理がありますが、会話は話す側の行為に見えて、実は聞く側に主体があるように思います。特に差別とアイデンティティのような授業では、聞く側の資質が問われるのでしょう。

閑話休題

秋山さんのいう「貧困そのもの」とは経済的貧困をさすのでしょうか。

私が現在向き合っている「社会的ひきこもり」といわれる人たちは、幼少期から青年期においてはおよそ「貧困そのもの」から遠くにあった人たちです。

そんな彼らが様々な要因によって「ひきこもり」をするがゆえに「貧困そのもの」を今生きねばならないのは実に悲しいことです。

豊かさとはいったい何なのでしょうか。ここに来てまた分からなくなりました。



追伸
およそ「貧困そのもの」から遠くにあった、と書きましたが、それは問題全体の氷山の一角だけなのかもしれません。
事実、西東京市や武蔵野市からは生活保護世帯のひきこもり支援の仕事を委託されています。精神科や公共サービスをも受けることのできない層の「社会的引きこもり」が、相当数潜在しているのではないでしょうか。

  1. 2009/01/03(土) 13:17:27 |
  2. URL |
  3. いずみたけよし #-
  4. [ 編集]

はまると抜け出し方がわからなくなる

いずみくん、コメントありがとう。

あのときは、授業後に出張講演に来たメンバーまじえて、みんなと話をしたかったのだけど、私も久しぶりの再会だったのでそこまでできず残念でした。

―聴く側が主体。
私もそう授業中に思いました。

そしてまた、話している彼らと学生たちの距離が本来よりもずっと離れているように感じました。


貧困そのものとは、経済的貧困であることは間違いないのだけれど、
貧しさ故に働くことや、学ぶことや、主張することや、議論すること、変革を起こすことや、人を愛することに制限がかかることはおかしいと・・・

生活保護世帯が社会に、政治に、奮起してどこが悪いのかと・・・

そういう、その状態に埋没してしまう、はまってしまうという毒素を貧困そのものが、もっているような気がしています。

セイフティーネットとか行政の政策なんて、あてにしてたら、そのうち人生が終わってしまう。


ひきこもりに関しても、何年も何年も引きこもっていて、何も生活にかかわることをしていなかったため、日常生活動作が全くできなくなり、精神科の急性期にやむを得ず入院する人がいます。


ひきこもっていて生きていられることが、おかしい。

生きるために生きていたら、悩んだり考えたりする暇もないと、半農民のmassunが言っていました。


わたしも、わからないことだらけだぁーーと、なんども心の中で嘆く1年でした。

それでも人は生きている。

山谷のおっちゃんたちから、すさまじい生きる力を、生き抜く力を、感じさせてもらって、そう思って、どうにかやっています。


また、顔を見て話しましょう。

  1. 2009/01/09(金) 17:50:44 |
  2. URL |
  3. KUREHA #-
  4. [ 編集]

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