ヒトノカズダケ

 ヒトノカズダケ・・・ 言葉があり、想いがあり、LIFESTYLEがあり、幸せがある。 日々よぎる思いを言葉にし、近くにいるようで遠い誰か、まだ知らない誰かとつながりを持てたらいいと思ってつくりました。

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5泊6日の一人暮らし


5日ぶりに東京に帰ってきたら、桜が咲いていて驚きました。

大子町では、ちょうど梅の見ごろです。

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となりのトトロに出てくる風景のような田園の道を自転車で走っていると、平和な気持ちになります。

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夜は、電灯も数少なく暗闇で、とても静か。

自分だけが平和だったり、不幸だったりする錯覚に陥りそうになって、おっと危ない危ないと心の中の自分の頬をたたきます。


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私が何故、茨城に生活の拠点を置くことになったのか。

最初から説明すると、それはもう長くなるのですが、きっと今しか書けないので書いてみようと思います。


小学校の卒業式で、卒業証書を校長から受け取った後、くるりと向き直り、舞台上で「将来の夢」を大きな声で言わなければならないという催しがありました。

私の夢は何だろう?

はてさて。

なる気もない夢を語るのもいやだし、絵に描いたようなことを言って先生たちを喜ばせる必要ももうないし・・

と、卒業そのものよりも、そのことばかり考えて式までの一ヶ月を過ごしていました。

そのときがきっと初めて自分自身を見つめたときだと思います。

私はその頃から大学に入るまで、日本が嫌いで、日本人が嫌いで・・ということは自分のことも嫌いでした。

なんで日本が嫌いなのか?

まわりの大人が生き生きしていないから

まわりの大人って?

親と教師(?)


ほぉ・・

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我が家は今でこそ、それぞれのマイペースが生きてなかなか面白い家庭になってきましたが(それも捉え方次第なんですが)、
私が高校に上がるころまでは、父と母は決裂していたように思っていましたし、それぞれが干渉しあわず、関心も持たず、違う方向を向いていました。


その原因の一つに、毎日、多いときは1日に3回かかってくる父への電話があったと思います。


相手は会社の人で、普段はのっけから名乗らず父の名前を出して「いますか?」と言うのですが、
「いません」と言うと、「ほんとはいるんだろー!出せよ!」と怒鳴ったり、
何度も「(父の名前を呼び捨てにして)出せ~!」とまくし立てます。


電話の彼女は、知的障害をもっており、
常に和やかでイライラしたり怒ったりすることのない(少なくとも私は観たことがありません)父が、
彼女に優しく接したことがきっかけで、好意を持ち、頼るようになり、毎日電話をかけてくるようになりました。


私がもの思いのつくころから電話はかかってきていて、母はピリピリヒステリー。

団地の小さな部屋の中で響く電話の音と、父のぼそぼそとした応答、母の金切り声。

小さい頃から家ではよく耳をふさいでいました。


いつまでこんなことが続くんだろう。

あの電話さえ来なければ、うちはもう少し平和だったし、仲のいい家族だったに違いない。


そう思い、彼女を恨み、大人になったら会いに行って、自分のやっていることによって私たち家族がどれだけ辛い思いをしているかを責めようと考えていました。

彼女が言うことに「うんうん」とうなずきながら返す父の背中を、情けないやら、母が可哀想やらで、何度か足蹴にしたことがあります。




あの頃は、今のように家族のことを想えるなんて想像もしていませんでした。

人との出会いによってもたらされる気づきは、私にたくさんの、ほんとうにたくさんの生まれてきたことの喜びをあたえてくれます。

その一方で、生まれてきたことの罪も感じずにはいられないのですが。


まぁ、そのどっちつかずの感情の混沌が、心地いいというか、自分を自分とせしめてくれるような気がします。



話が脱線しました。



私が高校に入った頃、父に電話をかけてきていた彼女は、亡くなりました。



幼少から高校まで、目を背けたいこと、耳をふさぎたいことが、家族の中で、特に父の対してあったことで、大学で一人でインドに行くようになった頃までは家族と向き合ったり、家族と過ごす時間を大切にしたりする姿勢はまったく無かったように思います。


一番近くに居る人たちに関心も向けず、尊重もできずにいた私は、自分自身にも同じように向き合えずにいました。

それでも抱える生きづらさと、人(自身も含めた)への不信感で、落ち崩れていきそう・・いきたかったのですが、そう簡単に人は朽ちたりしないんですね。



インドの奥地で出会った村々の先住民の暮らしが、‘生きてていいよ’と語りかけてくれたこと、

その声が、たくさん寄り道して、たくさんいろんな人とのつながりを築きながらも、私を茨城へと導いてくれたような気がします。


結局そこに返るのか・・と言われそうですが、そこが私の第二の原点です。



第一の原点は、父と母のあいだに生まれたこと。


ありがとう。

感謝でいっぱいです。



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これからも・・・



心が居心地の悪い状態である場所には、浸からない。


心が居心地の悪い状態で出る言葉は、使わない。


心が居心地の悪い状態である道は、歩かない。




暖かな春を。

KUREHA


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  1. 2009/03/28(土) 17:58:32|
  2. kurehaの独り言
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消化不良


出会いと別れがいっきに訪れる春ですね。

こんばんは。massunです。

先月から、ずっと出会いと別れをくり返しております。

そういえば、今日は出身大学の卒業式です。
卒業生、新しい生活をはじめる人たち、おめでとう!

春分の日からの三連休、非常に濃い3日間でした。


大学の濃い仲間3人を、残りの3人が送り出す送別会をしました。

kurehaとは、別れもなにも、いつも通りに話して、
じゃあね!という感じのお別れでした。

今更(今日、引っ越しのはず)、
肉体の距離は遠くなったんだと実感し、
なんとなく心もとない感覚がやってきております。

残り2人とのお別れも、
この先どうなっていくのか、わからないけど、
とにかく友人として応援して、時には厳しい言葉で見直しあっていきたいなと、
思っています。

昨日・今日は、出会いの日でした。

2日間で、20人以上の人と出会ったのではないかと思います。
もちろん全員とお話できたわけではありませんが、
とにかく濃い人たちばかりだったので、
頭の中が混乱中です。

一人一人との会話を追って思い出していくのに、
そうとうな時間がかかりそうですが、
じっくりと思い出したいと思う人たちばかりだったので、
幸せな出会いだったなと思います。

そうそう。

ちゃりんこ農園は、実は2坪の10倍、
つまり20坪でした。

訂正してお詫びします。

空いた時間を見つけては、
チャリンコで畑に行って、耕したり種を播いたりしています。

私は、市販の肥料はどんなものが入っているかが不明なので、
あまり使用したくないなと考えています。

そうは言っても、自分で肥料をつくるのには準備にも工程にも時間がかかるため、
ほとんど肥料を入れないままで始めてしまいました。

ということで、今回播いた種たちには本当に申し訳ない気持ちでいっぱいですが、
どうか、がんばって芽を出して欲しいと願っています。
勝手な農園主でごめんなさい。

20090318160500[1]
まっさらな「ちゃりんこ農園」


今年のmassunはどうするの?

と良く聞かれて、
基本的には去年と変わらずですが、
実家にいることの方が多くなりそうです。

なんとなく、落ち着かない年になりそうな気がしています。

なんとか、ひとつひとつの景色を大切にしながら、
日々生活できたらと思います。

来年度も、どうぞよろしくお願いします。


  1. 2009/03/22(日) 22:10:35|
  2. まっすんの寝言
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真っ白い靴


奄美大島に行ってきた。遠くはあるが、私のルーツのある島だ。




3年前、沖縄からの3日に1度の船に寸でのところで乗り損ねて行けなかった悔しい思い出がある。必ず、訪れようと思っていたあの島への旅で、最後の夜に日記に書きとめたことを、奄美の写真と共に記したいと思う。

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この旅は、新しい場所での新たな出会いのためでもなく、レジャーのためでもなく、修学旅行でもなく、この1年間を振り返るための旅になる。

そうしなければならない。そうしないと、うまく前に進めない。
そう予感して、病棟で履いていた真っ白なVANSのスニーカーを履いて、早朝まだ日も昇らぬうちに、勇んで羽田空港に向かった。

階段や、段差などで目線を下げるたび、思い出される真っ白な日々。


ちょうど一年間、初めて週休二日で働いた日々は、私の日常になることはなく、その間の私はずっと、非日常の傍観者であったように思う。

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先月、仕事納めの日に、この1年で私に残ったものはなんだろうと振り返ったところ、患者さんからいただいた一通のお礼の手紙と、患者さん同士で分け合ったバレンタインのチョコレートを餞別にといただいたものだけだった。

ただ、
「秋山さんが就職する病院に俺たち患者もみんな転院するよ。みんな、ここじゃ治らないから。」
「あなたの笑顔でなんとか長い入院を乗り切れたよ、ありがとう。」
「いつも良く動いていて大変そうだね。手伝うよ。」
など、患者さんからもらったことばや想いは、数限りなく、心に刻まれている。


しかし、あそこで知り合った人たちの名前や顔、姿が私の記憶から私の意志にかかわらず、、日に日に薄れ、消えていく。もうどこを探っても見つかりはしないように跡形もなく。

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病床数600床を越える大規模都市型の精神科単科の病院の、急性期閉鎖病棟。


あの場所での、私の仕事は、なんといえばいいか、しんどさの全くないかかわり合いだった。


目の前の人は、苦しみ、暴れ、自分や他者を傷つけ、泣き喚く。また、一方では、すべての辛い感情を凍てつかせて感じないようにしたり、妄想によって隠している。自分が壊れてしまわないように。


それなのに、「しんどさの全くない」かかわりあいとは、なんだろうか。


なんなんだろうか。

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どこまでいっても、管理する側とされる側。

とても従順で、患者の役を演じていなければ、そこに居る資格がないかのように観られる薄気味悪い世界。


私が、茨城に移り住む理由の一つに、一人の人の存在を知ったことがある。


その人の言葉を借りるならば、

「今や医療や福祉は、内容は別として隅々まで次々と制度化され、多くのマニュアルが備えられ、関わる人は専門職として資格化されて、アメニティという言葉で精神科病院はホテルのような快適な治療環境を競い、ノーマライゼーション・社会復帰・社会参加・自立支援・ソーシャルインクルージョンなどと理念が声高に謳われる。〈中略〉
職業的良心に溢れた(いや、知らぬ間に毒された?)資格者が患者さんに『出会う』ことは、かえって難しくなっている」

という状況に近い。


しかし、実際に働いてみて接した非人間的な看護者側の姿勢や態度を考えると、現実はもっと深刻であり、想像以上に差別的であった。

ナースステーションで看護側が、患者さんに対して(患者さんとはガラス1枚隔ててあり、聞こえないとはいえ、表情や目線は敏感に感じとっているだろう)、「気持ち悪い」「あんな人が同じ町に住んでたら、怖いよね」「MR(意:精神遅滞)だから低いのよ、話してもわからない」などと看護者同士で話しているのを聴いたり、話しかけられたりするたびに、目頭が熱く、拳が固くなった。


患者に対してだけではなく、看護者同士でも「臭いものに蓋」をする、異質なものは徹底的に排除する姿勢は、根強かった。

だから、ほとんどのスタッフは、自分の身の内や、思っていることを口にしないように、表面的にはケアし合いながら仕事をこなしていた。


それでも、半年近く一緒に働くと、不思議なもので情も湧くし、いいところや悪いところ、いろんな面を観ることで、一人一人の人間としておもしろみを感じるようになる。

また、思想や、哲学を表に出さずにいる看護師や精神保健福祉士が、患者を地域に帰している姿を観て、考えていることがかろうじて自分を保っていることに情けなさを感じた。


そうなると、頭の中は複雑になり、看護者側をただ嫌悪することもできなくなってくる。

ただ、今の自分を問い続けること
目の前の人から決して目を逸らさないこと
この二つを、自分と結ぶことができたのは、あの場所での真っ白な日々があったからかもしれない。

 
この1年間の日々によって、前に比べると自分や周りの世界を落ち着いて眺めることができるようになったと思う。

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自らを拓けない場で働くということは、向き合って考えると苦痛であり、耐え難いことではあるが、自らの選択の上で、大きな組織の中で患者を管理する側に立ち、非正規で働くという自己矛盾にさらされたこの1年は、一方向から見える世界を頑なに信じようとしていた以前の私をおおらか且つ冷静な眼で見つめる日々となった。


そのような日々によって、‘わからない’と感じること(安易に答えを出してしまわずに、問い直し、向き合いなおすべきだと感じること)が増幅したのは確かだが、頑なに信じたり、貫いたりするよりも、それが私の等身大であり、すべてだと思うようになった。

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以前、実習をしていた陶芸などを作業としている精神障害者の作業所で、

「精神病には興味があるの?」

と、慕っていた施設長に尋ねられたことがある。もう実習も終盤を迎えた頃だった。

私は、「何を聞いているんだ?この人は。」と一瞬思ったが、少し考え、答えた。

「いえ、人間に興味があります。」


病気で苦しんで辛い思いをしている人からしたら、頼りがいなんて全くないし、ふざけているんじゃないかと本気で怒られるかもしれない。

でも、これが本心だ。


ついでに付け加えると、
大阪西成区の釜が崎で30年ものあいだ、ボランティアで日雇い路上生活者のケースワークをしている入佐明美さんには、

「あなたは自信がないのね、自分に自信がない人に誰がついていきますか。身寄りも住むところもなくて食もなくて、とても心細い思いをしている人たちが、自信のないあなたなんて頼りにすると思う?」

と言われたことがある。



私は未だに自信なんてこれぽっちもない。


こんな、頼りない私の背中を、身近にいる仲間や、たくさんのこう在りたいと思える生き方をしている人たちが、支え、押し出してくれようとしている。


この見えないバックアップが、私の唯一の誇りだ。



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奄美大島の森の中を歩いても、簡単には汚れなかったあの白い靴。

あの日々を記憶から失ってしまわないように、捨てずに履いて、これからの日々で大いに汚していこうと思う。


南インドでアデヴァシーと出会い、日本で難民や日雇い労働者、路上生活者と出会って、生き方を問い直し、つかんだ職は、私にとって一生涯の軸になっていくはずだ。


茨城の北の山間の町に移り住み、さまざまな人にもまれながら、這い蹲るようにして、少しずつ自らの身体で歩んでいきたい。

ありがとう さようなら こんにちは






  1. 2009/03/10(火) 21:24:44|
  2. kurehaの独り言
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門出


ご無沙汰しております。
massunです。

更新しなかった間、本当にいろんなことがありました。
いろいろと書きたいことがあります。
が、今日のテーマは「門出」にします。

大学を卒業して、今年で3年目。

丸2年間、同期の仲間たちはそれぞれの選んだ社会で奮闘してきたわけです。

そんな中、3年目の今年、
新たな、いえ、積み重ねてきた経験の結果、
一歩を踏み出そうとしている仲間が多くいます。

大学時代の、付き合いの濃い仲間の一人が、
本日、林業の道へ進むことが決定しました。

同じく、もう一人が東南アジアのある国へ行くことが決まりました。

そして、本人から報告があると思いますが、
そんな仲間の一人、kurehaにも変化が…。

時代のせいもあってか、
多くの人が、自分の道を自分の責任で決めざるをえません。
会社や社会は、自分の責任をとってくれる可能性が低いのです。

自分の置かれた環境に左右されることはたくさんありますが、
その中でも一歩踏み出す選択をした人たち。

なんだか、わくわくします。

派遣社員で、いつ切られてもおかしくない状況になって、
今年はいろいろ考えなきゃ…でも、自由に考えられるから楽しい!
という声も。

それから、東京では抽象的な存在の自分が、
地元だと具体的な存在になれることをはっきりと認識し、
自分の田舎に帰る決意をした友人もいます。

「今の人は、すぐに辞める、あきらめる、続かない…。」

そんな声に対して、

こんなに自分で人生考えて、悩みながら、迷いながら、
社会と向きって生きてるんだぞ!
といいたいなあ。

さて、私も、林業をすることになった、
というほどの転機はありませんが、
本日、一歩を踏み出しました。

my農園の誕生です。

大学卒業後、
長野の織座農園に通って今年で3年目に入ります。

2年間、東京の仕事との往復で、畑の様子を1年間通してみたことがない自分に、
ずっと疑問を感じていました。

人の農園で、最終的な責任もなく、お手伝いというかたちでやっていて、
私は本当に学べているのだろうか?

本当にできるのか、自分を試してみたい。
いちから自分でやってみたい!という欲求が、
どんどん高まっていました。

そして今日、
友人のお父さんがやっていた2坪ほどの畑をゆずりうけることが決まりました!

2坪というと、織座農園の畑と比べたら、本当に、猫の額ほどなのかもしれません。

たしかに小さいかもしれないけど、
一人で、いちからやってみることが出来るということに、
大感謝・大感激しているところです。

今日、実際に畑を案内していただいて、
畑の名前はどうするの?
と聞かれました。

考えていなかったのですが、
決めました。

家から自転車で20分ほどの畑で、
車もバイクもないので、
自転車で通うことにしました。

ということで、
命名「チャリンコ農園」。

エコだし、自分の足でこいで進むこと、
なんだか初々しくて、のんびりだけど情熱と親しみを感じ、
安易な発想が自分らしいので、
2坪の畑をそう命名させてもらおうと思います。

今年も織座農園には通いますし、
NPOの仕事も続けます。
でも、私の生活に、自分の畑が加わりました。

本当に、誰も面倒を見てくれない、
でも、自分で育てる作物を決められる、
育て方も決められる、初めての農園が生まれました。

きっと、草ぼうぼうで、虫に食われて、
実もならなくて…という経験をすると思いますが、
それが今からとっても楽しみです。

チャリンコ農園日記も、お楽しみに~!

  1. 2009/03/09(月) 00:38:45|
  2. まっすんの寝言
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