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ヒトノカズダケ

 ヒトノカズダケ・・・ 言葉があり、想いがあり、LIFESTYLEがあり、幸せがある。 日々よぎる思いを言葉にし、近くにいるようで遠い誰か、まだ知らない誰かとつながりを持てたらいいと思ってつくりました。

ソーシャルワーク



今、2005-2006MTKインド森の民の暮らしとつながる旅の文集を編集している。
それと共に、1年間のインターン修了を5日後に控え、報告会の準備をしている。

この作業は、私の大学生でいた間の大きなまとめみたいなものであり、これを終えたときはきっと卒論の最終稿の前までを終えてしまったぐらいの気持ちになりそうだ。


と、言ってもこの作業、ちゃんと始めたのはつい2,3日前でそれまでは2週間前からフリーター⇒ニートに格下げ?になった妹とほとんど同じ生活ペースで暮らしていた。
違うのは、いいともを観た後、妹は昼ドラを観るが、私はパソコンを開けるか本を読むかぐらいなもので、昼寝や食事のタイミングは見事にそろっていた。
まぁ、考えてみれば自分もニートみたいな生活をしているのだ。自宅で暮らし、バイトは週に多くて3回、大学は月に1度行けばいいほう、ほんとうに頭の中を空っぽにしてぼーーっとしていると自分が誰なのか見失いそうになる。
危ない危ない・・・。
この数日で妹の心理の状態を少しだけ共有したような気がした。
妹は、これから美容系の専門学校に通おうとしている。
最近、別れた彼氏がたまに泊まりに来る。

バイト先で男性にぼろぼろにされた女性たちと何人も会ってきているから、私としては心配でたまらないけれど、一人じゃ生きていけないと言う妹の気持ちを私が埋めることがなかなかできないのでそこは小言を言いながら祈るだけだ。

家族が最後のセーフティネット。

日本の福祉の世界では、そう言われているらしい。


私は、すべての人が多様な専門家でありうると思っていて、すべての人がその人以外の人のソーシャルワーカーであると思っている。

惣菜屋のおばちゃんも、ゴミ拾いのおじさんも、プールの監視員のお兄さんも、スタバでフラペチーノつくってるお姉さんもみ~んな。


病気とか障害とか高齢とか虐待とか路上とか関係なく、最大多数の最大幸福ではなく、すべての人がすべての人の存在を許し、共に生きようとすることができればNPOやNGOや福祉や国際協力なんて言葉も枠も形も要らない。

そんなこと言ってもしょうがないかもしれないけど、この考え方は決して忘れてはいけないと思う。


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  1. 2006/06/14(水) 02:53:45|
  2. kurehaの独り言
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あたたかい居場所

おととい、東大宮の新田地にたたずむ温々(ぬくぬく)という喫茶・ギャラリーを訪れた。

4月に代々木公園で開催されたEARTH DAYで出会ったOIDEYOハウスで描かれた作品に心惹かれ、再会したかったからだ。

温々のギャラリーは、古い納屋を改装したものらしく、照明が自然で、窓の外は森のように緑が茂っていた。massunと私のお気に入りスポットであるPLANT'Sと並ぶくらい気に入ってしまった。

今回は、OIDEYOハウスの兄弟分である風の工房から作品が集まった。知的ハンディを持った人の作業所ならぬアトリエ。(福祉の世界ではなぜかしばしば障害を持った人の仕事を作業と呼ぶ)

制約や納期に縛られず、自分たちが描きたいときは描く、眠りたいときは昼寝をする、散歩をしたいときはピクニック・・・というように自分たちで生活を創っていく場所。

EARTH DAYで知り合ったアトリエのスタッフの親子はとても穏やかでゆっくりしていて、話していると時間というものの存在を忘れてしまうような人たちだった。

そんな親子を想いながら、ふらっと行った新田地帯のギャラリー。
帰りは駅までのバスがなく、足はタクシーを呼ぶしかない。
小1時間で歩けないこともないけれど、夕方から夜勤だった私は贅沢にも車を呼んでもらった。

そんな不便なところに4時間半かけてアトリエのある長野県上田市から作品をてがけたアーティストやスタッフの方がやってきた。

まさか、本人たちに会えるとは思っていなかったのでとても驚いた。
作品を指差して「これは色を塗るとき手が痛くなっちゃったんです」と細いパステルのペンで背景を塗ってある絵の創作経過の話をしてくれたりした。
やはり作者の話を聞くとその作品がぐっと近づいてくる。
平面であったものが手にとってなでまわすことのできるものになったような感覚だ。

作品の話をし、テーブルについてみんなが珈琲を頼むのを待ち、上田のアトリエに遊びに行くことを告げてからその場を去った。


去年、massunが自閉症の方々のアート展示会を開いたときも素敵な心惹かれる作品がたくさんあったが、OIDEYOハウスや風邪の工房の作品は、枠や型に決してはまることなく、まさに「創り出している」という過程が伝わってくるおもしろいものばかりだ。

新聞のあちこちからいろんな言葉を拾って、その中でもとっておきのものを書き出している作品があるのだが、その拾い方がおもしろい。
たとえば、「インドのカレーはうまい」という文章があったとしたら、「レーはうま」とか「ンドのカレ」というように、単語ごとに切るのではなく、1つ1つの文字で切り、普段意味のある言葉としてつかわれている枠をとっぱらってしまうのだ。

また、ただただ同じ文字をキャンバスいっぱいに並べ、うまい具合に色を入れて楽しませてくれる作品もあった。

たとえば、こんな風に。

ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ

その題名はズバリ「あああ・・」

手書きじゃないと伝わりにくいかな?

※ぜんぶたとえばで実際の作品とは異なります。

人間、誰しも型にはまらず生きると楽しい、おもしろいって教えてもらい、ホッとする作品とたくさん出会えた。


次回、長野の織座農園へ羊の毛刈りに行くときにでも、上田に寄って生で創作の過程を見てこようと思う。

  1. 2006/06/04(日) 23:59:33|
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いとおしい

最近、人を愛おしいと思う。

会う人会う人にその想いがこみ上げる。


目を合わせ、同じ空間に居るだけで、そこに言葉がなくてもあっても関係ない。
その人その人の仕草、表情、声を、見つめ、耳を澄ますと・・・


不思議と胸の奥に温かさを感じる。


去年いっぱい、いや、もっと前から「余裕」のある暮らし方・生き方をしたいと思っていた。
それが今の日々なのかもしれない。


なぁんてふと思った。


「愛着が湧いてしまう
ってよく言うけど、愛着が湧くって素敵なことだと私は思う。

モノ・コト・人に思いを馳せ、なんだか自分でもよくわからないのだけれど、手放せない。

そういう対象があることは幸せで大切だ。

いとおしいっていう言葉には、①見ていられないほどかわいそうであるという意味と②せつなくかわいい(かわいいは愛さずにはいられないという意)という2つの意味がある。


今の気持ちから生まれてくるものを大事にしよう。



  1. 2006/06/04(日) 21:51:17|
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